「尾張の大うつけ」織田信長、、桶狭間で「海道一の弓取り」今川義元と戦う。 織田 vs 今川 永禄3年5月19日(1560年6月12日)

駿河を本拠とし、遠江、三河と西に支配地を広げていた今川義元は、
1560年(永禄3年)6月、尾張をも手中に収めるべく、
2万人とも4万5,000人とも言われる大軍を自ら率い、東海道を西進した。

一方、迎え撃つ尾張勢は、総勢およそ3,000人
総大将は、うつけと呼ばれた若き織田信長
兵力においては絶対的に不利な織田軍であったが、
桶狭間において見事今川軍を打ち破った。

まさに大番狂わせであり、ゆえに歴史に名を残すこととなった
この「桶狭間の戦い」は、
作家・井沢元彦氏をして「世界史上稀に見る大逆転劇」と言わしめた。
しかし、なぜ圧倒的な戦力差を覆して織田軍が勝つことができたのか、
多くのを秘めた戦いでもある。

「尾張」織田軍総大将織田信長

写真:織田信長 像

1534年〜1582年(天文3年〜天正10年)

尾張の戦国大名・織田信秀の嫡男として生まれた後、那古野城主となり、家老の平手政秀を教育係とした。

信秀の死後、弱冠十九歳で家督を継ぐ。美濃斎藤氏、三河松平氏らを押さえつつ、尾張守護・守護代との争いや織田家内の内紛を制し、桶狭間の戦いが起きる2年前の永禄二年、ほぼ尾張を統一した。

青年期までの信長の身なり・振る舞いが奇抜だったことから、「尾張の大うつけ」と言われたが、内外の敵を欺くための偽装であった、という説もある。

「駿河」今川軍総大将今川義元

写真:今川義元 像

1519年〜1560年(永正16年〜永禄3年)

駿河・遠江を支配した戦国大名で、今川氏第十一代当主。寄親・寄子制の採用など軍事改革を進めるとともに、織田信長の父・信秀と争い、三河にも勢力を拡大した。

また、武田信玄・北条氏康と甲相駿三国同盟を結ぶといった軍事・外交面における成果を挙げたほか、今川仮名目録追加二十一条を制定するなど、内政面でも非凡な才能を発揮し、「海道一の弓取り」と言われた。