絶体絶命の織田軍はなぜ今川軍に勝つことができたのか?桶狭間の謎に迫る。

「謎」に満ちた大番狂わせ。

「桶狭間の戦い」は1560年(永禄3年)6月、駿河・遠江・三河の三国を制し、2万人とも4万5000人とも言われる大軍勢を率いて尾張に侵攻した大大名・今川義元に対し、圧倒的劣勢に立たされた織田信長が、3000人とも言われる寡兵で今川軍に勝利したという日本史上有名な戦いである。

ではなぜ、信長が10倍以上とも言われる戦力差を覆して義元を討ち取り、特筆すべき大番狂わせを起こすことができたのか。それは、偶然と幸運が重なった奇跡の勝利なのか?それとも信長の巧妙な戦略の勝利なのか?はたまた、義元の油断が招いた敗北なのか?今なお諸説入り乱れる、桶狭間の戦いの「謎」に迫る。

迂回攻撃か正面攻撃か

桶狭間の戦いにおける、織田軍の今川軍本陣に対する攻撃については、長い間「迂回奇襲説」が定説とされてきた。すなわち、義元の本隊が桶狭間付近で休息を取っていることを知った信長が、密かに山中を迂回して本陣の背後に回り、山の上から奇襲をかけ、大混乱となった今川軍を打ち破って義元の首を取った、というものである。

しかしこの説は、今川軍の油断を前提としているが、「黒衣の宰相」と呼ばれた稀代の大軍師・太原雪斎の教えを受け、自らも「海道一の弓取り」と呼ばれた戦国武将である義元が、戦場で致命的な油断をするとは考えにくい。

また、山中を迂回するには時間がかかり、先を越されてしまうリスクもあることから、近年では否定的な見解が大勢を占め、「正面奇襲説」が定着しつつある。

偶然の勝利か、戦術の勝利か。

写真:『桶狭間今川義元血戦』 楊斎延一 画
『桶狭間今川義元血戦』 楊斎延一

「正面奇襲説」とは、織田軍の前線基地の一つである中嶋砦に入った信長が、そこから直線で3キロメートル程度離れた桶狭間付近で休息を取っていた義元の本陣に、いわば最短コースで正面から奇襲をかけ勝利した、というもの。しかし、なぜ圧倒的に兵力の劣る織田軍が、正面から今川軍の本隊に挑んで勝利することができたのかについては諸説あるが、大きく2つの説があると言える。

1つは、偶然説とも呼べる見解で、信長が桶狭間で発見した敵の軍を本隊ではなく先鋒隊だと考え、ともかく前哨戦において大敗していた織田軍の形勢逆転を狙って攻撃したところ、期せずして本隊への正面突撃となり、さらに戦闘前の偶然の豪雨と、地形が窪地あるいは丘陵であったため、混乱した今川軍の統制が取れなかったなどの今川軍に不利な条件が、「幸運にも」「偶然」重なったために織田軍が勝利したというもの。

もう1つは、織田軍の勝利の要因が信長の卓越した戦術にあったという考えである。これによると、信長は古代中国の兵法書「呉子」にある、「千の力で万の敵を撃つ最善の策は狭い谷間で戦うこと」や「先頭と後尾が分断された敵は攻めやすい」といった兵法を用い、まずは義元を谷間である桶狭間におびき寄せて大軍の展開を防いだ。また、義元の後軍がまだ桶狭間にいる間に、前線部隊を砦攻略に向かわせて軍を2つに分断させたうえで信長が義元の本陣を攻撃し、勝利したというものである。

また、鷹狩りと称して頻繁に領地の把握と兵の軍事訓練を行っていた信長は、桶狭間の地形・気候にも通じていた。そこで、信長は「追い風の時に大声を出して攻めよ」という兵法に従い、現在よりもかなり海沿いであった当時の大高・桶狭間の地形・気候を考え、伊勢湾からの海風が強くなる正午頃から戦闘を開始した。

このように、同じく古代中国の兵法書である「孫子」にある、「敵と味方の状況を把握し、攻撃する時期を見計らって地の利を活かせば必ず勝つ」を実行した信長の戦術が、桶狭間の劇的な大勝利をもたらしたというわけである。

尾張の大うつけ?

写真:信長と義元のイラスト(いくさの子より)

織田信長といえば、「尾張の大うつけ(大馬鹿者)」と呼ばれていたことはよく知られているが、実は、「うつけ」は演技だったという説がある。中国の故事に倣い、有能な人物が後継者争いで暗殺されるのを防ぐため、父親である信秀が一番優れた息子の信長に、わざと「うつけ」を演じさせていたというのである。

桶狭間における「世界史上稀に見る大逆転劇」が、実際に信長の戦術によってもたらされたのであれば、「うつけ演技説」にも納得がいくというものである。また、この戦いにより信長の飛躍が始まるほか、松平元康(徳川家康)が人質から大名となる転機となるなど、「桶狭間」は中世から近世への幕を開けた歴史の転換点、『近世の曙』となった戦いであったと言えよう。